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2006.01.18 (Wed)

11年前のあの日のこと

今日は阪神淡路大震災から11年目の日。
あれから11年たったと思うと、まるで遠い昔のような気もするし、つい昨日のことのようにはっきり覚えていることもあり、あっという間の11年だったなとも思う。
あの日の前日は、私の誕生日を祝うために私の神戸の家に両親と姉が来てくれていた。父は17日早くから仕事があったので16日の晩に一人で奈良へ帰っていた。
1月17日、いつものように朝5時半頃起きて、主人の朝食の用意にコーヒーメーカーに水を入れて、台所で他の準備をしていた時、初めに小さい揺れを感じた。その時は「あっ地震」と思ったとたんに体験したことの無い大きな横揺れが来た。立っていたけど、あまりの揺れで立っていられなくなりひざをついてしゃがみこんでいた。揺れている最中は身動きもとれず体の上にいろんなものが落ちてきているのを感じたのでとりあえず頭をかかえていた。一旦揺れがおさまり、息子と主人の寝ている部屋のふすまを開けて入ろうとしたがふすまが開かず入れなかったので、隣の母が寝ている部屋のふとんになんとかもぐりこんだ。既に起きて会社へ行く仕度をしていた姉も一緒に。そこに、またさきほどと同じようなすごい揺れ。隣の部屋では2歳だった息子が「おかあさん、おかあさん!!」と泣きじゃくりながら叫んでいた。主人に「○○ちゃん(息子)大丈夫?」と聞くと「大丈夫や、そっちは?」「大丈夫!」とそんな言葉を交わしたような。息子は主人が上にかぶさって守ってくれていた。息子に「お母さんここにいるから大丈夫やで、お父さんがいるから大丈夫!」と大きな声で何度も叫んでいた。それでも、息子は叫び続けていた。その声は忘れられない。その揺れがようやくおさまり、主人が「上に着るもの持って外へ出ろ!」と叫びあっという間に息子を抱いて外へ飛び出していった。私はおろおろしながら、押入れから上着を出そうと必死になっていたが真っ暗で見えないし、わけもわからずとりあえず手にさわったものを引っ張り出した。姉にも「そこらへんにある服持って出て!」と言って母、姉と一緒に外へ飛び出した。当時住んでいたのはマンションの4階だった。廊下へ出ると火災報知機が鳴っていて自動消火装置で水が出たようで水浸しだった。階段ががたがたに割れていて怖かった。とりあえず、下まで降りたとき、1階部分にあった駐車場は天井が落ちていて車が半分くらい押しつぶされていて、その車のクラクションがずーっと鳴っていたのになぜかぞーっとした。そこで、主人と学校まだ開いてないから、公園に行こうと言う事になり、歩いて2~3分のいつも子供を連れて遊びに行っていた公園に向った。その途中、いつも見慣れた町が全く変わっていたことに驚いた。すぐそばの工場でも非常ベルが鳴りっぱなしでそこの電線がだらーんと垂れ下がっていたのがなぜか印象的だった。ちょっと行くと、近所のマンションから大きな火が出ていた。道路はがたがたで、呆然とした表情で逃げ惑う人々、サイレンの音。自分が、まるで戦争映画の中に入ったような不思議な気分がしていた。まるで現実とは思えなかった。公園に行くとまだあまり人がいなかったのでベンチが開いていて座ることが出来た。上着と思って持ってきたのは、なんと布団だった。それさえもわからないほど慌てていたのだ。でも、あの寒さの中布団を持っていたのがとても助かった。私はその布団にくるまり、息子をひざにのせて座っていた。母と姉はしばらくすると父に電話すると言って公園の前にある公衆電話の列に並びに行った。当時はまだ携帯電話はほとんど持っている人がいなかったので公衆電話にものすごい行列ができていた。公園に面した一軒家はほとんど崩れてしまっており、そのうちの一軒から、「だれか助けてー、お父さんがー!」と女性が叫ぶ声がした。主人を含めて公園に集まってきていた男性方が何名か飛んで行き、救出を手伝っていた。かなりの時間がかかって、あたりがすっかり明るくなってからやっと、見つかったようだが、それから戻ってきた主人に聞くと、もう動いてなかったからだめみたい…とのこと。その間、私はずっと息子と二人で座ったまま。息子は眠っていた。その間も、遠くの方からボンボンとプロパンが爆発しているような音、いろんな所で大きく火が上がっていた。隣におばあさんが一人いらっしゃったので、余っていた布団をどうぞ使って下さいと言うとありがとうと言って布団にくるまって座った。ぼうっとしていてあまり覚えていないがそのおばあさんは「お父さんがどっか行ってしまっておらへん、家に一緒におったのに探してもおらへん。」とぼうっとした感じで言われた。あまり心配してる風でもなかったので、私もなんのことかなーと思いながら聞いていたが今思うともしかして、おじいさんは亡くなられたのかも。そんなことも考えられないほど、みんなが呆然とした感じだった。
それから、やっと電話して、父と大阪の祖母の無事を確認できた母と姉が戻ってきた。まるで、様子がわからないまま何時間もたっていたので神戸がこんなんやから、奈良や大阪はもっとひどいに違いない。父と祖母は無事だろうか、とそっちを心配していたので安心した。
明るくなり、避難場所である、私のマンションの隣にある小学校が開いたと聞いて、一度家に寄り、とりあえずのものを持って、小学校で場所を確保してやっと落ち着く。小学校のピロティには畳屋ふすまに乗せられて横たわる人がずらっと並んでいた。それを見て、「風とともに去りぬ」の南北戦争の戦地へ行ったスカーレットが広場にずらっと並ぶけが人、死人にぞっとした表情を浮かべるあのシーンを思い出した。主人は、神戸市内に住む二人の姉のところへ見に行ってくると言って出て行った。私は、ずっと息子を抱いて座ったままあとはどうしていたか、何を考えていたか全く記憶が無い。どれくらいたってからか覚えていないが主人がジュースや何かを買って戻ってきた。お姉さんたちも大丈夫だった。体育館が開放され場所を確保し落ち着いていたところ、体育館の屋上にあるプールから水がもれるかもしれないから体育館から出てくれと言われ、一旦出たかどうか覚えていないが、体育館にいることにした。夜になると、近くにあるNTTの塔が倒れてくるかもしれないから全員、この学校から出て中学校へ行って下さいという。こんな夜に動くのもいやだったので行かずに残った。半分くらいは一旦中学校へ行ったものの、中学校は電気もつかず真っ暗で場所がもうない、と言って戻ってきた人もいた。幸いなことに、前の日パンをたくさん買っていたのでそれを食べ、なんとか空腹に耐えた。その日、夜救援物資で毛布がきた。パンの配給があるというので姉が並びに行ってくれたが一家族に一つといわれた。でも、飲み物がないし、それまでパンばかりだったし、ああいうときにパンはあまり欲しくない。後日ニュースでおにぎりが配給されるようになったと聞いてよかったなーと思ったものだ。
その日のうちだったか、西宮北口から阪急電車が動いているとニュースで聞き、とりあえずそこまで歩いていけば奈良の実家に行けるということになり、(姉も母も仕事があるのでいつまでもここにいるわけにいかないし)翌日朝出発することに。夜は寒さと不安であまり眠れなかった。そして、18日朝家に一旦帰り、とりあえず必要なものだけ持って出発。タクシーをさがしてみるがやはり無理だった。途中通った、家の近所のよく通る駄菓子屋さんをしていたお宅からおばあさんらしき遺体が運び出されているところだった。薄暗い店でむすっとした怖い顔のおばあさんが座っていたので怖くて一度もお菓子を買ったことはなかったが、よく見ていた人が死んでいるという現実を感じて自然と涙が出た。
歩いていると、あちこちでまさに現実とは思えないような光景があった。うちの最寄の地下駅は、上の道路が大きく割れておしつぶされていて、道路には水がたまっていた。もう一方の駅前の銀行はぐしゃっとつぶれて、窓ガラスは割れ、ブラインドがだらーんと垂れ下がっていて、なんともいえない姿だった。(よく震災の写真に使われている所)三ノ宮近辺では斜めになったビル、ばたーんと倒れたビルなどまるで、ウルトラマンのセットのようだった。あの、根本が壊れた高速道路の横も通り、途中、石油タンクが爆発するかもしれないのでここは通らないでもっと北を通るよう言われた。なんとか、8時間くらいかけて普段電車で20分くらいのところを西宮北口にたどりついた。あたりは暗くなりかけていた。ほっとした。電車が動いてる!と喜んで乗ったら、驚いた。そこには綺麗な服を着て、きちんと化粧をした普段どおりの会社帰りのひとでほぼ満員だった。私たちは、着のみ、着のままでとりあえず暖かい格好と着込んでいて、水がなかったので顔も歯も洗ってないし、髪の毛もぼさぼさのまま、もちろん化粧もせず、でも、そんなこと全く気にしていなかった。みんなそれどころではないと思っていた。ところが、ほんの少ししか離れていない場所では人々は普段どおりの生活をしていたということにものすごく衝撃を受けた。普段どおりの人たちは、私たちの異様な姿を驚いたように見ていた。だが、とにかく電車を乗り継いで無事に奈良の父が待つ実家へたどり着くことができて、どれだけほっとしたことか。父は、朝地震で目を覚ましニュースで神戸が震源の地震だったと知ると、自分は一人ぼっちになった、と一瞬思ったと言っていた。なぜ、一人で帰ってきたのかと悔やんでいたそうだ。母と姉にはこんな目に合わせてしまい申し訳なかったが、二人が一緒にいてくれてどれほど心強かったことか。父は一人でさぞ心配しただろうが。ともかく、家族全員怪我もなく、兄弟も無事であったのは本当にラッキーだったと思う。
こんな体験をしていても、地震のための準備を段々怠るようになってきている。でも、最近でも神戸の人たちは赤い月を見るとまた地震があるんかなと話します。あの時も真っ赤な月だったそうだ。去年も赤い月が出ていたことがありみんなで心配していたら、東京で大きな地震があった。7月のことだ。とりあえず、家にいつも食べ物を置いておかないと。お菓子でも何でも。お水も。避難袋の中身のチェックをしておこう。
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テーマ : 阪神淡路大震災 - ジャンル : 日記

00:55  |  日々のできごと  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

あっという間の様な遠い昔の様な・・。この時期新聞等で亡くなられた方の記事等読むたびに、私の様なものが生き残ったのにと罪悪感を感じます。あの日を忘れない様に5時46分の黙祷、あの日の自分が歩いた場所をTV報道のビデオを見て思い出し、(あの時と同じく)暖かいものは食べない様にしてます。記憶を風化させない事が生き残った者の義務だと思います。
SYOKO |  2006年01月18日(水) 12:16 | URL 【コメント編集】

★普段の暮らしの幸せ

お姉ちゃん、書き込みありがとう。
昨日は思いにまかせて長々と気持ちをつづってしまったけど、今でも、あの時家族が誰か亡くなっていても不思議はなかったと思い、みんな無事だったことに感謝しています。
昨日、主人と地震の時の話をしていて、外に出たとき家の前にガス管がむき出しになってて、青白い煙がそこから出ているのが見えたと言っていました。確かにガス臭かったけど、それは全く気がつかなかった。もし、あのとき真っ暗だからと誰かがライターでも付けていたらみんなだめやったやろうなと話して、本当に良かったねと話しました。
きょん |  2006年01月18日(水) 16:37 | URL 【コメント編集】

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